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第8項お題

ちょっとお題が遅れました。恐縮です。
今回のお話は記憶である。これはかなり建築から遠ざかり心理学や哲学の分野に突入している。今回の話もかなり哲学的な内容が多かったように思う。しかしあまり難しく考えなくてもよい。覚えておいて欲しいのは3つの表象である。それは知覚表象と記憶表象と想像表象である。そして今日のお題だが、あなたが建築を見たときにこれら3つの表象が融合した経験はないか?あるいは2つでもよいのだが、そうした融合によって経験がより豊かに感じたことはないか?その経験を言葉にして欲しい。字数は800字くらい。

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森川健太:

06TA344B 森川健太

 まず私の目が捉えたのは、天を突くかのごとくそびえ立つ東塔の美しさであった。鉛直方向に一直線に伸びる縦の線と、水平に広がった屋根による横の線の組み合わせの美しさに感銘をおぼえた。そして、その古くなった歴史を感じさせるたたずまいも印象的だった。ここまでが知覚表象(認知)。
 その歴史的な概観から、この東塔が飛鳥時代である1300年前に建てられたものだという記憶が呼び覚まされた。この美しさと歴史的価値から、世界遺産にも登録されているという。ここまでが記憶表象。
 そしてここまでの思考がつながり、東塔を中心とした薬師寺全体と共に自分も飛鳥時代へと時間をさかのぼっていくような感覚にとらわれた。スケッチをしていく中で、全体の設計者、装飾を施した職人、建設に関わった大工、そしてここを訪れた人々といったそれぞれの思いを想像し、追体験できるような気持ちになってきたのだ。ここまでが想像表象。
 これら全てを総合し、私は初めて「ああ、建築を体験するとはこういうことか」という感動を覚えたのだ。
 
 私の薬師寺東塔での経験は、観念連合にも当てはまるものだろう。知覚によって認識したものから、自らの記憶や創造をもってインスピレーションを様々に展開し、目の前の事象を理解していったのだ。
 一方で、この観念連合という考え方を否定する動きも理解できる。絵画や彫刻には、それが誰によって、何年に製作され、どういう意味が込められていて、どれくらいの価値があるのか、といったことを何も知らない人にでも、単純に美しいという感動を与える力がある。観念連合の否定は、芸術における選民思想の否定ともとれる。
 なら建築はどうか。建築には絵画や彫刻とは違い、「製作には多くの人の手が必要になる」、「そこに人の生活がある」という特徴がある。製作に関わる人も時間も多く、更にその後の生活の違いで建築から受ける印象も変わってきたりする為、建築においては「時間による蓄積」というものが大きなウェイトを占めてくるのだ。
 建築と接するときには、そこにどういう苦労があり、どういう生活があったのかということを理解することで、よりその建築をよく理解することが出来る。私も歴史的背景を勉強してからもう一度薬師寺を訪れれば、そこに訪れた人が何をし、何を考えたのかという想像をより掘り下げることが出来るであろう。
 
 歴史的なものだけではなく、建築を体験するためには知覚、記憶、想像という3つの表象をつなげ合わせることが重要な意味を持つと考える。建築にこめられた人々の思いという「時間の蓄積」の効果は、決して無視できないものなのである。

沈宇:

土本研 沈宇
古い建物を見たら、感想はまず、建物に関する歴史(記憶)、そして、その時代に出会ったこと(想像)です。この機会を借りて、中国青島の歴史町並みについて感想ぐらいでお話したいと思います。一言で言えばかなり都市開発が進んでいて、しかも高層建築物がまるで競い合うように建設されている状況です。ドイツの都市計画のもとに形成された歴史街区は、その都市開発がもうあと何年かで及んでくるであろうという場所にありました。 歴史は繰り返すといいますが、ここ青島の街並みだけを見れば、1900年当時、ドイツまたはその後日本によっての都市計画がなされ、ドイツ風の街並みがおそらく強引に形成された。そして100年たった今、今度は中国自身の都市開発計画により、歴史的街区を含めた古いものはすべて破壊され、おそらく強引に高層建物群を形成していく。この街は100年位のスパンでこんな方法でしか街を変えていく術を持たないのかもしれない。
歴史街区は、たしかにドイツ軍が強引に都市計画をしき、中国であるのにドイツ風の赤煉瓦屋根にアーチ窓といった建物で形成されています。しかし、そこに住み続けてきた人々の知恵によって、所々に中国のデザインを取り入れた手摺りがあったり、また使い勝手をより良くするために中庭や中廊下という空間を最大限に活用して増築等を行っています。ドイツと中国が融合した大変貴重な様式をつくっているといっても過言ではないでしょう。私はいつも建物の保存を考えるときに思いますが、保存=昔のままの形を残す(あるいは戻す)というのはタブーで、その街、その建物に住み続けてきたということに最大の価値があり、人々が住み続けるために行ってきた手法、専門家の意見と混ぜて形として残していくことこそが、街並み保存と言えるのではないかと考えます。良い仕組みは残して、現代の生活様式にあった住宅、街並みをつくるという気持ちを持って欲しいと思いました。
 

06TA350G:山田敦:

愛知県の豊田市美術館を見に行ったとき、まず見る前に豊田市にあるものだからお金持ちの市のものだから立派な建物であろうと想像していた。まあ、まさにそのとおりであろうと予想していたような建物が広い敷地の上に建っていた。よく見てみると、作者の緻密な計算が感じられその土地の歴史や存在感を想像することができる.

知覚、記憶、想像表象の融合は建築を見た瞬間に起こると私は考える。しかし、その想起した一瞬の中には自分なりの順序が存在すると考えられる。
建築を見たとき、まず知覚、記憶、想像表象のうちどれが想起させられるか。普通は知覚表象が想起されると考えられるが、私は知覚表象、想像表象、記憶表象の順である。
人間には五感というものがある。知覚というものはこの五感に含まれ、特に建築を見るときは視角が重要であると考えられる。そして注目すべきは現代科学では証明できない第六感というものの存在である。この第六感とは一般的には「直感」と呼ばれ、人々の経験や歴史、環境によってまさに「直感的に」感じることができることが特徴である。想像表象とはこの直感が深く関わっていると私は考える。数学者の中には複雑な問題を見た瞬間に答えが頭に浮かび、その次の段階で途中の計算式や証明を付け加える物も存在するという。この直感は時に答えを導きだし、建築を見るときはその建築が瞬間的に自分にとって好ましい建築かどうか、世間一般的に受け入れられてよい建築なのだろうかを判断するのである。ゆえに知覚情報から建築の善し悪しを判断するよりも先に、直感という想像表象からまさに直感的に好みを判断しているのであると考えるのである。
記憶表象とは私の考えの中では、過去の自分の経験や、歴史との「照合」という作業であると考えるので、建築を見るときは最後に想起されるものであると考える。

06ta335c 日合絢乃:

建築を見ることに関して、知覚表象、記憶表象、想像表象の3つの表象のうちいつも2つは融合していると思います。建築は建物自体だけでなく、どのように使われているか、どのような人が使っているかという内面も必ず伴っているからです。
知覚表象は、建物自体のその場所にある姿を感じることで、記憶表象はその建物の機能や使われ方などの知識や、その建築の歴史などの知識を伴って感じるものであり、過去に見たことがある、似た機能を持った建物の記憶(神社や寺、学校、駅、家などの機能)を呼び覚まし、知覚表象と組み合わされることで“目の前にある建築について理解する”ということであると思います。
これらのことから、何もわからない子供でない限り知覚表象と記憶表象の2つは多くの場合、融合しているのではないかと思います。
想像表象では、記憶表象を頼りに過去にこのような出来事があったという知識やこれからこの家族が住む家であるというなどの知識によってその建築で起きた、もしくは起きるだろうことを想像することが可能になると思います。知識が全くない場合は、記憶表象を介さずに想像表象に飛んでどんな使われ方をするのだろうという想像をすることもあるとは思いますが、少数であると思います。
そこで、私の知覚表象、記憶表象、想像表象をした経験では、自宅をリフォームしたときのことです。私が高校生の時リフォームをしたのですが、完成したとき、昔の家の記憶とこれから新しくきれいに変わった家での生活を想像してとても幸せに感じました。
以上のことから、3つの表象を融合させることは通常にあることであって、特別なことではないのではないかと思います。

山崎政希 06TA349C 土本研:

「こんな図書館が普通にあったら違っただろうな」と素直に思った。風除室の二重の自動ドアを越えて、少し暗く、あまりエアコンの効いていない室内に入ると、まずカウンターがある。それが高校時代通った図書館だったからだ。それともう一つ抱いた想像は「今日こんなに人がいなかったら見え方は違うだろうな」っというものだった。これは建物に入って散々歩き回ったあとのことで、最初はこうだった。
 中に入ると広く、壁が無い。エスカレーターが目についたが、探しているのはそれではなくチューブである。当然1階にもあったのだけれど、そのチューブに気づいたのは上階にいってからだった。これがあれか、っとチューブの中の螺旋階段で下へ降りた。そして、海草のイメージのスケッチを思い出す。螺旋階段を再びのぼり、スラブの薄さ、階と階の近さを確認する。
 表へ出てもあのスケッチとは違う。何となく、青っぽいイメージだった気がしたが、ガラスの色味は似ていた。道路を渡って建物全体をみると、そこには海草は見えないが、スケッチ通りの建物が建つ。あらためて、これかぁ、と認識する。

 知覚表象、記憶表象、想像表象を区別して意識し感じることはおそらくない。振り返って考えてみて、あの感覚はこれじゃないかと整理してみてた。建築を見に行こうとした場合、少なからず情報をもって見に行くので、知覚表象と記憶表象はある。あの写真ここだな、という体験は多い。ただ、予想と違ったという経験も多い。期待を越えるインパクトを与えてくれた建築には心から感動するのだが、その逆が意外と多いのには残念である。実物を見ない方が良かったということもあった。2度、3度行ってみて毎回違う印象を得ることもあるし、後に雑誌などによって考えが変わることもある。知覚表象と記憶表象は何度でも、自身によって更新されていくものだと思う。同様に、想像表象も毎回感じているのだろうけれど、いざ思い出そうとするとなかなか無い。想像表象があったということ、あったということを覚えていることは、その建築が印象に残っているということである。すなわち、3つの表象が融合すれば、自ずと経験は豊かに記憶されるのだ。
 
 仙台メディアテークのplanを製図課題で参考にしたことがあっ。訪れた当日は多くの人がいたためか、望んでいた感想通りにはいかなかった。それが理由で、3つの表象の経験が鮮明に記憶されているのかもしれない。

池田千加:

バルセロナ・パビリオン。

大学に入りたての頃の課題で、わたしはこの建築物の平面をトレースしていた。
実物がどんなものかも知らずに、ただきれいに描くことだけを考えて、それだけだった。

そんなことはすっかり忘れた、2年から3年になる春休み、ヨーロッパ研修旅行で実際に行く機会にめぐまれた。
勉強不足がばれてしまうが、そこに足を踏み入れて、その時初めてここはあそこなんだ、と思った。
そのときの感覚は、忘れられない。
自分が描いた平面図の中に入ったような初めての経験だった。
ああ、ここがあの十字の柱で、この壁があの壁なんだと、とても興奮したのを覚えている。
だが、詳細を見過ぎた気がしている。
小さなパーツにばかり目がいき、全体をみることができずにいたように思う。

そして今回、この課題のために写真をみてみた。
また違う物にみえた。
色も雰囲気も。
そしてようやっと、全体としてとらえることができたように思う。

知覚表象と記憶表象と想像表象。
これらは、自分が気づかないうちに常に体験していると思う。
そして今回、それらの組み合わせによって自分のたっている位置が変化した。
最初にトレースをしたときから、4年ほどまたがっての経験である。
その中で、自分のたっている位置がどんどん変わっていくのが面白かった。
ただ、わたしがバルセロナ・パビリオンというものに対して経験した感覚について、明確にこれが知覚表象でこれが記憶。そしてこれは想像である、ということはできない。
知覚表象であると思ったものも、それをみて、認識しているのが人間であるなら、そこには必ず記憶や想像はあるはずで、知覚表象ということが単体で起こることはないと思う。

人間の目に映る、あるいは心が感じるものについて、なにかを言うことはとても難しい。
自分がみたものが、他の人と同じであるとは限らない。むしろ、違うものをみていると思う。
そして、自分がみたものが、つぎに同じものをみたときと同じであるとも限らないと思う。
だからこそ、経験したことを改めてかんがえていくことで、ふつうならそのまま流されていくその経験が、より豊かなものになっていくのだと思う。

土本研究室 06TA337K 前田明秀:

 “あれ”を見たとき一体何を思ったかを、思い返してみる。スペインはセビリアの深い空に突き刺さる、白い稲妻。私にとってはあまりにも衝撃的な出会いであった。その構造物の名を「アラミージョ橋」という。

 今でこそカラトラヴァの名を知らないはずもないが、当時は彼の名はおろか、彼の作品さえ知るよしもなかった。その橋に出会ったのは、全くの偶然であったし、予備知識などあろうはずもなかった。観光用の船に乗っていると、遙か向こうから、今まで見たこともない何かが近づいてくる。いや、見たことない形をしているがそれは間違いなく橋だった。記憶の中にある、どの橋とも違うはずのそれを見て、それでもそれはほぼ瞬間的に橋であると理解された。

 未体験の事物に対して、何らかのイメージを創り上げることができるのは、主に知覚表象と記憶表象の連携によるものであると思う。この例で言えば、川の両岸を結びつけるという橋が本来持ち合わせる姿と、機能が、それを橋と思わせる大きな要因になっていたといえる。

 想像表象は、知覚表象と記憶表象とは少し違う性質を持っているように思う。そもそも、想像という行為自体が、知覚と記憶の両者に多分に寄りかかっている。もちろん、記憶だって想像によるところがあるのだが、知覚と記憶は想像することよりはるかに客観的である。とすると、私のイメージでは、知覚表象と記憶表象はベースであり、想像表象はその上に乗ってくるのである。
 
 アラミージョ橋を見たとき、橋と認識した上で、いろいろ考えた。特徴的ながらも、シンプルな構造からは、力学的な力の流れとその力の緊張感が感じられたし、それが、視覚的に見えるような感覚さえ覚えた。はじめて構造美というものを意識した瞬間だったかもしれない。そして、いろいろなイメージを創り出すことがまた、記憶に深く刻まれるために重要なことなのだと思う。その記憶はまた後の経験にフィードバックされる。こうした3つの融合とループの中で、記憶は形成されているのではないだろうか。

西成田 由:

 今までで、最も鮮明に印象が残っている建物は何かと考えたときに真っ先に出てきたものは、ツインタワービルであった。私自身がニューヨークに行ったのは、中学3年の終わりだったと思う。

 家族で出かけたニューヨークという都市は、都市が碁盤目状に整備されており、超高層ビルが立ち並ぶ圧迫感の強かった都市であったと記憶している。両親に連れられ、ツインタワービルの前に立ったとき、私はものすごい恐怖を覚えた。真っ直ぐと空へ向かっている2棟のビルは今まで自分が見たことのない高さであった。遠くから、ツインタワービルを眺めたときは、直線的で高くかっこいいとさえ印象を受けていたのだが、ビルの前に立って、ビルを見上げたときそんな感覚は全て吹き飛んでしまった。真っ直ぐにそびえているはずのビルは、あまりの高さゆえ、私のほうへしなり、今にも倒れてくるような印象を受けたのである。このまま、このビルを見上げていたら、ビルに潰される、直感的にそう感じた私は、見上げるのを止めた。この当時の私は、建築について知識などは全く無く、たまたま他のビルからニューヨークを一望したときに、目立っていたので気になった程度であった。

 その衝撃から7年以上が経とうとしているが、ツインタワービルは未だに私の記憶に深く刻まれている。もし、その当時の私に建築の知識があったとしたら、このような衝撃は受けなかったかもしれない。恐怖ではなく、感動を覚えていたのかもしれない。しかし、私は感動を覚えなかったことが逆に良かったと感じている。恐怖というものは、忘れたくても忘れられない。今ではその当時と比べれば建築の知識があるため、恐怖は感じないであろう。知識の介入により、恐怖という経験は二度と出来ない。恐怖とは本能的に感じるものであり、建築を本能的にとらえられた貴重な経験であったと思っている。

坂牛研究室 山田匠:

いやー、前回のコメントは坂牛賞いただいたとおもったのですが。
建築にくらいついているような書き方にもしてみただけにちょっと悔しい!
それでは今回のお題について解答させていただきます。


記憶を通り越して訴えるもの


一回も見たことは無いのですが、ゲーリーの建物から話を始めたいと思います。

「ただそこに何かわけのわからないウネウネした大きなものがある」

これが、ゲーリーの建築を目撃した時の印象になるのではないかと思います。
少なくとも自分の中には、ゲーリーの建築を想起させるような記憶はありません。

この様に、自分が記憶しているものの範囲(説明できる許容範囲)を超えて訴えてくるものという感覚は、自然を見たときの感覚に似ているのではないかと思います。
それなりに色々な場所の自然を見てきました。万年雪の掛かった白くそそり立つアルプスの山々。赤い砂の舞うアンダルシアの砂漠。陰鬱とした灰色の平原が広がる春先の南仏。

これらの自然には、洋の東西を問わず名前や神話が付加されています。ギリシア神話しかり、日本のだいだら法師の伝説しかりだと思います。
これらは、人の記憶(知識あるいわ言語と言えるかもしれません)を通り越して、訴えてくるものに対して、人間が取り合えずの着陸点を設けて自分の許容範囲内に収めようという意識から生まれたものではないかと思います。それが、恐怖心からの場合もあるだろうし、畏敬の念からの場合もあるだろうし、そこからの景色が美しいと思ったからということもあるでしょう。
その様な、名前が付加される場所や自然というものが、その周辺の人々にとってまさに記憶表象となり、想像も掻き立てるのではないかと思います。

ここで、建築に話を戻せば、単純な自然の模倣に何の意味も無いことは当然だとしても(それで成功するのはガウディくらいだと思います)、記憶や想像すらもとおりこしたところに訴える感性が想起されたとき、またその様な感覚にさせてくれる建築に出会ったとき、自分の経験がより豊かになるのだと思います。

この様に自分の記憶を通り越すものとして、(コールハースのように)ひたすら大きいということは当てはまると思いますが、それ以外の方法として、ゲーリーのウネウネした形態もあると思います。

06TA325F 土本研究室 善田健二:

 今までで衝撃的な建築との出会い。経験上、衝撃的な建築と出会った時はそのほとんどがその場で感じることのできる知覚表象のみによる。今までの記憶のどこにもなく(記憶表象がない)、想像することもなかったもの(想像表象がない)が突然目の前に姿を現す。これは、まったくの無防備な自分の中にその対象物は入り込んできて、居座るようになると表現できるであろうか。しかし、この時、自分の中にある世界がぐぐっと広くなることを感じる。これはこれで豊かな経験となったといえる。

 今回は、知覚表象、記憶表象、想像表象の融合した時の豊かに感じた経験。色々と思い起こすのではあるが、浮かばない。この三つの表象が融合する時とはどんな時なのだろう。考えた結果、普段何気なくその場(生活圏)にあり、ある時思いがけず、いつもと違った印象を与えてくれる、その時が知覚・記憶・想像表象の融合がみられるのではないか。

 そのような建物を思い出してみたが、該当するものがない。そこで私は建物ではなく、富士山を取りあげる。小さな頃から富士山はいつも北側を見るとそこにあった。みんなの想像表象としての富士山は裾野まで広がる綺麗な形をした富士山であろう。私の中でもそうなのだが、実際の私の住むところから見える富士山は8合目から山頂のほんの一部である。住む場所と富士山の間に一つ山があるため、ほとんど隠れているのだ。これが、私の中の富士山の知覚表象であった。また、毎日みれるものだから、記憶表象も知覚表象とほぼ変わらない。ここですでに三つの表象が揃っている。しかし、それは何も豊かな経験ではない。

 ある時、富士山を違った角度から見る機会があった。その時、思わず息を飲む光景が目の前に広がっていたのを今でも思い出す。いつも目にするのは山頂の一部しか見えない富士山。それが当たり前であったのに、目の前には想像表象で思い描いていた以上のスケールのでかい富士山であった。この時、新たな視覚表象が、今までの視覚表象に上書きされた。それと同時に記憶表象とにギャップが生じ、そして想像表象を圧倒する。よって、豊かな経験とは三つの表象のどれか(今回は知覚表象であったが)が新たな一面を見せる時のものなのではないかと考える。

06TA338H 土本研究室 三村卓也:

3つの表象が融合した経験は、長野県にある仁科神明宮を訪れた時、私はそれを感じたのかもしれない。
 仁科神明宮は、伊勢神宮と同様の神明造の建物である。これが、見学に行く前に私がもつ知識であった。実際にそれを訪れた時、今まで写真や本でしか見たことのない建物を自分の目で初めて認識した。この時、対象物を生身の体で認識して知覚認知が行われた。この時点で、私は今まで記憶してきた本などから得た情報と、目の前にある物体を照らし合わせ、改めて自分のものに消化しようとする行動を起こす。この時、私は知識として知覚していた仁科神明宮を知覚表象と記憶表象の融合したものとして改めて記憶する。次に私は、神明造の特徴である堀立柱、棟持柱、切妻の屋根の形、鰹木などを、自分の知りうる知識の記憶をもとに細部に目をおく。この時にも上記と同様の行為が行われた。「こんなの本にのっていたな」、「本当に柱が土に埋まっているのだな」というような感想を持ちながら1つ1つを知覚表象と記憶表象をもって自分の中に消化してゆく。
 最後に、私は全体の空間や雰囲気を感じることによって、仁科神明宮はとても神秘的な空間だな、という印象を得た。建築を見たのだが、私はそこに神々しい存在を連想した。もちろん、仁科神明宮自体の空間構成がそう思わせるような配置であることは言うまでもない。しかし、初めは建築を見ていたはずであるのに、最後には全体を把握して、仁科神明宮に神秘的なものを印象づけられた。ここで、私は知覚表象と記憶表象、想像表象と3つを融合して経験したことになる。

 通して振り返ってみると、これらのことは素直に言葉に出てきた。言い換えればそれだけ豊かな経験であったのかもしれない。人間は、知覚表象と記憶表象の2つを常に行っているように思う。対して、想像表象は経験したものをその場で何か別の表現ができない場合、行われないのではないか。逆に言えば、言い換えられる何かを経験し、記憶していない場合、想像されにくい。想像表象も常に行われるようになれば、記憶の仕方や、改めて表現する、と言った場合に豊かに他者に伝えることができるような気がします。

浅野研究室 06ta308f 大田智紀:

経験は多くの感情によって豊かになる。これは、建築に限った事ではなく多くのことに代用できる。例えば、夕焼けが過ぎた後の光が綺麗だと思うのも、雲を染める太陽の残光である知覚・記憶・想像により認識しているからではないだろうか。

街を歩いているとイルミネーションをよく目にする。小さい光は点滅している。ライトが光ると、自分の発熱で変形して接点が離れる、それでライトは消える。冷めると冷えて、また接点が戻る、そしてライトがつく。単純だけどおもしろい原理である。点滅の周期によって点滅として認識されたり、一定の光のように見えたりする。同じ原理ではあるが。イメージは異なる。
講義の中でも挙げられた、3つ表象で建築を捉えているならば、やはりどれもが重なり合って認識しているのではないかと考える。最初のイメージとして(もちろんそうでない場合もあるが、第一の認識として)知覚はもちろんのこと、記憶・想像によって捉えることは多い。人間の記憶力、認識力は元来、精度の低い機能であるが、漠然とした過去のイメージによって捉えることもある。以前に体験した記憶・感覚から認識する場合もある。あるいは、先人の記憶、過去の思考をトレースする事で新たに感じる事ができる。それは、想像表象と置き換えられるのかもしれない。実家が近いという事もあって、伊勢神宮によく行く事がある。外宮はそうでもないのだが、内宮は多くの木々があり、神々しい雰囲気に感じる事ができる。建築には、それ建物自体が与える影響さらには、その外的要因が与える影響もあるように感じる。

早稲田大学・立川創平

ほとんど何もない空間に、あふれる人を見た。

2004年、ひどい台風の中、僕は磯崎新の大分県立図書館を訪れた。取り壊しが危惧されたこともあるそれは、数年前にアートプラザとして改装され、貸しギャラリーと磯崎新の建築展示室となっていた。ずぶぬれになりながら、やっとのことでたどり着いた。

台風の中訪れるような物好きは僕くらいだったのか、朝9時過ぎに到着して12時に帰るまで、館内にいたのは職員の方と僕だけだった。後から実は臨時休館にしようとしていたところに僕が来てしまったのだと知るのだけれど。

全館をゆっくり見てエントランスホールに戻った。エントランスホールは60年代ホールとなっていて、宮脇愛子などの作品が展示されている。壁面展示がほとんどで、非常に大きな空間が、何もない状態で広がっている。

ホールの端のカウンターで僕は聞く。
「お姉さんはここが図書館だった頃に来たことってありますか?」
彼女は答える。
「ええ何回か、中学校の頃とか、夏休みに。すごく混んでたように覚えてます。図書館としては使いにくかった、ってここに配属されてから聞きました」

頷きながら、僕ががらんとしたホールを振り返ろうとする。その瞬間、ざーっという音が暴力的に後ろから襲う。その音の洪水の中、僕はほとんど何もない空間を振り返りながら、でもそこに、あふれる人を、確かに見た。

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音はちょうど警備の人が外溝を見回って帰ってきたために自動ドアが開いて、打ち付ける台風の雨音がホールに響いたものだった。でもその時僕は、それを図書館だったころの建築にあふれる人の音だと無意識に考えていた。今では図書館がそんなにうるさかったはずはないと思うのだけれど。

一瞬だけだったけれど、僕はそこにないものを見た。幻覚といえば幻覚だ。でも普段から幻覚をみたりするわけじゃない。どうしてそんなことが起こったのか。館内を見ている時、僕はがらんとしたエントランスホールを見て歩きながら、図書館だった頃の様子を想像していた。その想像は、僕のよく知る図書館を思い出しながらのものだったと思う。つまり記憶表象によって想像表象を補っていた。また図書館だった頃の写真も展示されていて、想像表象を補っていた。

そして図書館だった頃は混んでいたという職員の女性の言葉を受け、その想像表象は強化された。振り返ろうとした時に聞こえた雨の音が、図書館の喧騒のように聞こえ、きっかけを与える。その瞬間、振り返った僕の目に見えた知覚表象と、膨らんでいた想像表象が融合し、僕は目の前に見える空間を、人のあふれる空間として認知したのだ。

あれほどの融合は、その後まだ経験していない。建築を訪れる時、僕はそのあるべき姿を想像しようとしている。もしこう使われていたらどうだったろう、そう考える。目を閉じてみたり、空間内に人を配置してみたり。あるいは自分の設計を図面や模型で見るときもそうだ。知覚した図面を立ち上げ、空間に人を配置し、その賑わいを想像する。いくつかの理想的な建築の記憶が、その時役に立つこともある。

建築を「見る」、そのことだけであれば知覚表象で十分なのかもしれない。けれど建築を「感じる」ためには記憶表象に裏付けられた想像表象と、知覚表象が融合することが必要だと考える。その融合は別に幻覚にまでならなくていいのだけれど(あれはあの時だけの、奇跡だ)、少なくとも意識的に、それらの像を結びつけることが重要なのだ。

牛:

今回は論理の筋道に秀でたものはありません。それは問題の設定がそのようなものを要求していないからです。ですから皆さんの3つの表象を交えた体験がいかに生き生きと描かれているかということにかかっています。その意味で次の4つの文章が印象的でした。森川君。池田さん。山田匠君。立川君。4名に坂牛賞です。

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2006年11月28日 22:42に投稿されたエントリーのページです。

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